質問81: 「赦し」についてのわかりやすい説明文のようなものはありませんか?
おそらくこれはすでに幾度となく回答が与えられた質問だろうということは、まだ初心者の私にもわかりますが、〈赦し〉についてお尋ねします。
このコースが〈赦し〉について語っているとき、それが意味していることは、(私の言葉で要約すると)「起こったと思ったことは、実は起こっていなかった。誰も、誰かを傷つけたことはないし、何もひどいことはしていない」ということのようです。
こういうことを聞くと、私の頭は混乱してしまいます。過去の状況についての事実は、単なる幻想だということなのですか?
この点について、何かわかりやすいパンフレットか、説明文のようなものがあれば、紹介してください。
回答
以下に述べる〈赦し〉の三つのステップについては、『奇跡講座』の中では、次の二箇所で説明されています。
(1) 「テキスト」第五章、セクションⅦ、段落6の第7文 ~第 11文
(2) 「ワークブック」レッスン23、段落5の第1文 ~第 4文
出版物の中では、以下の箇所に、〈赦し〉のプロセスの簡単な要約や説明があります。
(1) 『奇跡講座入門』第四章「怒りと赦し」
(2) Forgiveness and Jesus: The Meeting Place of “A Course in Miracles” and Christianity(未訳: 『赦しとイエス ー 奇跡講座とキリスト教の接点』) の中の第二章
その他、このQ&Aシリーズの他の質問と回答をお読みになれば、その中にも同じ原理の適用例がいくつか説明されていることに気づかれることと思います。
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『奇跡講座』が教えている〈赦し〉というのは、一元論の形而上学という枠組みでのみ、理解可能です。それ以外においては、まったく意味を成しませんし、その意味は歪曲され、従来通りの「赦し」の意味と区別がつかなくなってしまいます。それは、このコースが教えていることから切り離して考えることはできません。すなわち、このコースはこの世界の起源と目的は何であると教えているか、また、過去・現在・未来に生きる肉体をもつ個人として私たちがこの世界に存在しているかに見えているのは、どのような目的のためにどのようにして起こったことだと教えているか、といったことから切り離して、〈赦し〉について考えることはできないのです。
〈赦し〉についての『奇跡講座』の見解は独特であり、右記の起点から論理的に展開されていますが、それを実践することは容易ではありません。なぜなら、私たちの生活と経験は、このコースが教えていることとは正反対の前提の上に成り立っているからです。
「兄弟が行わなかったことについて、彼を赦す」という、このコースの教える〈赦し〉を実践するためには、私たちは、少なくとも知的レベルにおいて、次の二つのことを受け入れようとすることから始めなければなりません。
(1) すべての怒りとすべての被害者意識は、自分自身の無意識の罪悪感の投影であるということ。
(2) この無意識の罪悪感自体も、「私たちは、個人としての生を生きられるようになるために神を攻撃し、それによって、罪を犯した」という信念から生じているということ。
この二つです。
このすべてはもちろん幻想なのですが、私たちは自分が個人であると思っているわけですから、こうした前提は依然として私たちの心の中に存在しています。そして、その罪深さを実在のものと見なしている私たちは、自分の個人としてのアイデンティティーをあきらめて神の単一性に戻るのが嫌なので、その罪を否認し、責任を自分の外側の誰かの上に投影してしまいます。こうして、私たちが投影した罪悪感は、今や、意地悪で憎らしく、乱暴で無神経で身勝手である・・などと知覚されている他人の中にあるということになり、私たち自身は罪の無い被害者だということになります。
ここで言う「私たち」とは、時空の外側にある心の一部分である「決断する主体」のことです。この部分は、時間と空間の中に存在するかに見える自己としての私たちにより忘れ去られてしまっており、その代わりに、この時空の中の自己が自覚されています。
以上が、自分や他の人々が不当に扱われたとか、被害者になった、などという私たちの知覚や気持ちの起源についての、必要最低限の概略です。当然のことながら、こうした精神力動のメカニズムは、もっとずっと複雑ですが、以上の概略だけでも、『奇跡講座』の〈赦し〉の理論がどのように展開されているのかについて、少しはご理解いただけることと思います。以上のことだけでも、「私たちが不当に扱われたという経験をしたい唯一の理由は、他の誰かが有罪だと言えるようになるためである」ということが見えてきます。
これは、私たちが外界の出来事についての「事実」を否認すべきだという意味ではありません。このコースは、もっぱら、私たちがそれらをどのように経験するかということだけについて語っています。それが鍵です。
自分が不当に扱われたという知覚は一つの解釈であり、状況をそのように知覚しようとする無意識の必要から生じています。私たちはそのような精神力動を自覚していませんが、それを自覚していないということこそが、投影という自我の戦略に欠かせない要素なのです。
したがって、〈赦し〉のプロセスの第一ステップは、投影とその結果を逆転させることです。
これが何を意味するかというと、私たちが他者の中で攻撃したり裁いたりしたものは、私たちがまず最初に自分自身の中で非難したものであると、認識することです。それは、「私たちが投影した怒りというのは、自分自身の罪悪感を他人の中に見ることによってそれを回避しようとする決断である」という認識です。繰り返しますが、これは、他人がったことを否認するという意味ではありませんし、それについて、あなたが何もしてはいけないという意味でもありません。
第二ステップでは、「罪悪感もまた、一つの決断がもたらしたものである」と理解することになります。
この段階で、そうした決断が再び私たちの自覚の中に戻され、再考されます。私たちは、罪悪感という自我の思考体系と同一化することを選択する代わりに、無罪性という聖霊の思考体系と同一化することを選択します。これによって、第三ステップへの道が開けます。
この第三ステップは、聖霊の仕事です。
ですから、〈赦し〉の最初の二つのステップは、私たちの中で聖霊の癒しの仕事が行われることを可能にするための私たちの決断に相当するものです。
けれども、聖霊が私たちの罪悪感を取り去ることができるのは、私たち自身が罪悪感に執着することをやめたときだけです。罪悪感がなくなったときには ー たとえそれが一瞬の間だとしても ー 私たちはただ愛と思いやりのみと同一化しており、いかなることも自分個人への攻撃と受け取ることはしなくなります。私たちがその状況に対応して何らかの行動をするとき、その愛と思いやりだけが私たちを通して流れていくことになり、私たちの反応は、自然に、当事者全員にとって最も愛情深いものとなります。行動だけを見るなら、他の人の対応と何ら変わらないように見える場合もあるかもしれませんが、そうした形態の中にある内容は、愛となります。私たちの霊性の道における進歩という点から言えば、重要なのはそれだけです。