質問66: 「薬剤は呪文」(T-2.V.2:1-2)ということの意味
『奇跡講座』は物理的な薬剤は、呪文の諸形態だと言っています(T-2.V.2:1-2)。
これはどういう意味なのか説明していただけますか?
神は、私たちに必要なすべてを与えた、と言ったのではないのですか? そして、それには薬剤を作るための薬草も含まれる、ということではないのですか?
回答
聖書や西洋の宗教は、神がこの世界とその中の一切を創造したという前提に基づいていますが、『奇跡講座』はそうではありません。このコースの説明の仕方によれば、世界は「誤った知覚」(W-pII.3.1:1)であり、「神に対する攻撃として作り出された」(W-pII.3.2:1)のであり、「神を締め出せる場所、神の子が神から離れていられる場所となるためのものだった」(W-pII.3.2:4)ということです。この物理的な世界の中のいかなるものも神から生じているはずはない、ということになります。なぜなら、この世界は分離と多様性の世界ですが、神は完璧な一体性だからです。ですから、神はこの世界の中には居ませんし、世界については知ってさえもいないのです。この世界のすべて、私たちの個別のアイデンティティー、肉体、そしてすべての問題は、私たちの心の中だけに存在しています。私たちは、文字通り、神の愛を閉め出すために、このすべてを作り上げたのです。私たちに喜びを与えてくれたり助けてくれたりするように見える一切も、同じ理由で私たちが作り上げました。
自分が何か外側のものにより助けられているように見えているとき、ある意味では、私たちは、「私には神の愛は必要ない、それよりも良いものを見つけたから」と、神に告げているのです。これが 『奇跡講座』 が〈魔術〉と呼んでいるもの、つまり、物理的な世界の中にある何かを変化させることで、問題を外的に解決しようとすることです。
実際のところ、私たちは年がら年中こうしたタイプの〈魔術〉を実践しています。人々の言葉や行為に腹立ちを感じるとき、私たちは彼らを変えようとします。身体的不快感があるときは、体を治療します。このやり方における問題は、それは決して私たちを永続する平安の状態へと導かないということです。もし私たちが何とか誰かを変化させることができたとしても、他の誰かがまた私たちを腹立たせることになります。もし頭痛の薬を飲んだとしても、遅かれ早かれ身体の別の部分の調子が悪くなります。
『奇跡講座』 を通して、イエスは私たちが何を理解できるように助けてくれようとしているのかと言えば、私たちの〈魔術〉の試みは、私たちのただ一つの真の問題に対処しないがゆえに、永続的な結果や満足する結果をもたらさない、ということです。 その真の問題とは、すなわち、「自分は神から分離し、神の愛を破壊した」という信念と、それが引き起こす罪悪感です。
『奇跡講座』は、この自己譴責が間違っていることを私たちに教え、神の平安に再覚醒することだけを自らのゴールとするようにと促します。そのためにこのコースが提示する方法は、内なる教師を変えるというものです。罪、罪悪感、恐れからなる自我の思考体系から、聖霊がもたらす〈赦し〉の思考体系へと、知覚が移行し変化すること、これが『奇跡講座』による「奇跡」の定義です。私たちが、自ら進んでこの変化を繰り返し求めるようになるとき、私たちは、目覚めの優しいプロセスを進んでいくように導かれ、最終的には、自分のすべての問題はでっち上げられたものであり、それらには自分の平安や幸福を取り去るだけの力はないということを悟ることになります。
外見的には問題のように見えるどのような状況においても、私たちが選べる選択肢は非常に単純なものです。私たちは自分の人生の外的映像を変更しようとして〈魔術〉を試みることができます。あるいは、その映像を問題と見なすようにさせている内なる状況 (すなわち、私たちの思考) の方を変化させるための助けを求めて、奇跡を選択することもできます。あなたの質問が言及している一節は次のように述べています。
魔術とは心が伴わない心の使用、つまり、心の誤創造的使用である。薬物は、言わば「呪文」の諸形態である。しかし、もしあなたが心を使って癒すことを恐れているなら、それを試みるべきではない。
(T-2.V.2:1-2)
換言すれば、私たちはいまだに神の愛と私たち自身の心の力を恐れているので、時には〈魔術〉を選ぶことが私たちにできる最善のことだという場合もある、ということです。そして、そうであっても大丈夫だということを、イエスは私たちに知らせたいのです。それは、私たちが真に望んでいるものをもたらしはしませんが、〈魔術〉を使うということは、悪いことでも、罪深いことでもないのです。
ですから、もしあなたに身体的な疾患があって、薬剤が助けになるだろうと信じているなら、あなたはそれを使用すべきですが、そこで罪悪感を感じないようにすべきなのです。薬剤そのものは、あなたを神の平安に近づけることはしないでしょう。しかし、私たちは、「自分は今、恐れている。そして、それでも大丈夫なのだ」という意味合いの優しい微笑みを浮かべながら薬剤を使用するなら、その平安に近づくことができます。