質問53: 亡くなった人に対する罪悪感には、どのように対処したらいいのか
私は少し前に、愛する人を亡くしましたが、その人との関わりについて非常に大きな罪悪感を抱いています。自分は彼に赦してもらう必要があると感じています。 『奇跡講座』 なら、彼はどこかに「行ってしまった」わけではないと言うだろうと、私にはわかっています。でも、現実問題として、私が知覚するこの世界においては、私は彼には二度と会えないのです。時々、このことを思うと耐えられなくなります。
私はこれにどう対処したらいいのでしょうか。そしてまた、彼の死をきっかけとして、彼とは関わりがなさそうな、あらゆる種類の罪悪感や自己嫌悪といったものまでが噴出しています。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
回答
私たちが経験する哀悼のプロセスは、その人が 『奇跡講座』 の受講生であってもなくても、と言うよりもおそらく受講生であればなおさらに、実に複雑なものです。そうしたプロセスは、あなたが述べておられるような感情や、さらに多くの様々な感情を引き起こします。なぜなら、死というものは、自我による非常に重要な防衛の一つだからです。最も重要な防衛とさえ言えるかもしれません。
死は必然的に様々な感情を噴出させますが、そのすべてが、私たちが自分の愛する人々の上に投影してきたものと関連しています。深い喪失感を抱くことは正常であり、自分の喪失感に対処する際には、自分自身に対し優しく接するということが非常に重要です。自分の感情を否認することや、そうした感情を打ち消すためにこのコースの原理を利用したりすることは、助けにはなりませんし、むしろ愛する人を亡くしたことをあなたが受容していく道のりを妨げることもあります。
とはいえ、このコースが教えていることの多くは、あなたが述べておられるような状況に適用できますし、大きな助けにもなり得ます。けれども、あなたは、今は、哀悼の気持ちを経験している最中なのですから、こうした考察についてはゆっくりと検討するのが賢明と言えるでしょう。そうした作業は、普通の感情が生じるようになる時まで傍らに置いておき、あなた自身が自らの喪失感を超えたところを見る必要があると感じた時に行えばいいのです。
このコースが教えている〈赦し〉がもつ、非常に慰めになる一側面は、その〈赦し〉の機会は私たちから決して失われない、という点です。それはなぜかと言えば、私たちが、何らかの関わりにおいて、赦したくない気持ちとして知覚するものは、実際には、何らかの形の自分自身に対する赦したくない気持ちが投影されたものだからです。「すべての攻撃は自己攻撃である」 (T-10.II.5:1) と言われている通りです。
それゆえに、〈赦し〉のプロセスに、遅すぎるということはありません。そして、私たちが赦しを乞う必要があると知覚している相手が、もはや私たちと共に居ないとしても、それは問題ではないのです。その関わりの中の具体的な状況がどういうものだったかに関係なく、相手に対して何らかの「罪」が犯されたと断定した判断こそが、違った見方で見られる必要のある対象です。
私たちは自分の〈特別な関係〉を通して、神から分離したことに対し感じている罪悪感や自己嫌悪を和らげようとすると、このコースは教えています。〈特別な関係〉は、どのようにカモフラージュされていようと、この罪悪感と自己嫌悪感の投影を土台としています。
何らかの形の攻撃として相手に向けて表現された激しい憎悪のように見えるものは、私たち自身の自己嫌悪感が投影されたものにすぎません。それが常にその本質なのです。はじめから、その関わりにおけるやり取りの裏にはこの自己嫌悪が潜んでいたわけです。攻撃は、見かけ上は外側の他者に向かって行われていますが、実は私たち自身に対する攻撃です。
だからこそ、あなたは、自分の愛する人があなたの傍らに居なくなってしまった今、そうした罪悪感や自己嫌悪を自分で直接、感じてしまうことになるのです。今では、それらが自分自身の上に投影されているからです。
このコースが私たちに教えているのは、「攻撃が自分自身に向けられるか、他者に向けられるかは問題ではない。私たちが攻撃しようとしまいと、自らを含む〈一なる子〉のすべての部分は神聖にして犯されざるものであり続ける」ということです。
神の子の裏切りは幻想の中だけにあり、彼の「罪」のすべては彼自身による想像にすぎない。彼の実相には永遠に罪がない。彼に必要なのは、赦されることではなく、目覚めることである。彼は自分の夢の中で自分自身と兄弟たちと神を裏切った。だが、夢の中で為されたことは、真に為されてはいない。(T-17.I.1:1-5)
あとはただ、自分の愛する人を真に傷つけることが可能だった、と考えている自分自身を赦すこと、つまり、「自分自身についての真理 〔訳注〕が、自分の自己嫌悪感によって、どんな形ででも減じられることがあり得る」と考えている自分自身を赦すことだけです。それらは何の結果ももたらしません。自我の解釈を信じていることが間違いなのです。つまり、「あなたは何か罪深いことをしたために懲罰に値し、それについて罪悪感を感じるべきであり、そのゆえに、あなたの自己嫌悪感は正当化される」という解釈が間違っているのです。このコースが、神の子が行わなかったことについて赦すように(T-17.III.1:5)と私たちに教えているとき、それは兄弟だけでなく、私たち自身についても言及しているのです。
〔訳注〕自分は罪の無い神の子だということ。
繰り返しますが、自分の愛する人を恋しく思うのはきわめて正常なことです。そして、このコースは非常にはっきりと、私たちは自分の感情を否認すべきではないと教えています。相手が亡くなった後でさえも、聖霊は〈特別な関係〉を〈神聖な関係〉へと変容させることができます。私たちに必要なのは、ただ、その関わりにおいて自分が追求していた神聖ならざる自分の利益を、自ら進んで認識しようとし、そのことについて自分自身を赦し、聖霊が私たちの心の中でその関わりを再解釈できるようにすることだけです。
その関わりは、そのようにして癒されることができます。そして、この癒しが、喪失感や哀悼の気持ちを和らげることになります。実際には、強烈な喪失感を味わっているという時には、死は存在しないと自分を説得しようとするよりも、この方が実践しやすいことでしょう。私たちの関わりにおいて、痛みを生み出すものは、分離の想念であり、実際に相手が物理的にそこに居るか居ないか、といったことではないのです。自分が兄弟に対して行なったと思ったけれども本当は行なっていなかったことについて、自分自身を赦すこと、そして、その人と自分の無罪性を受け入れることが平安をもたらし、その平安があなたの悲嘆や喪失感と入れ替わることになります。
[2012年6月29日]