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質問40: いつか目覚めることが必然なら、私たちが何をしても同じ ことなのではないでしょうか?

facim q&a

私たちが目覚めるということ、あるいは少なくとも自分の真のアイデンティティーを思い出すということが、いつかは必ず起こるというのなら、その前提から論理的に考えると、行動のレベルにおいては、私たちは何でもいいからこの世界で自分が最も平安に感じられることをしていればいい、ということになるのでしょうか?

そうすると、いろいろな意味で、他の人々が何を言おうと、何をしようと、本当はどうでもよい、ということになります。 実際のところ、もし目覚めのプロセスが必然のものであるとすれば、『奇跡講座』自体も全く関係ないことになります。つまり、ただ自分の一番好きなことをして生きながらえていればいい、そして、この世界における私たちの活動と見えるものが何であれ、自我は無意味なことしゃべり続けるという事実については、決して甘く見ないでいればいい、というだけのことなのではないでしょうか?

 

回答

私たちは決して真に神から分離することはできないという単純な理由によって、「結果は神と同じく確実」(T-2.III.3:10) だとか、「贖罪がすべての者に受け入れられるのは、単に時間の問題」(T-2.III.3:1)だとか、そういったことが言えるわけです。とはいっても、私たちは今この瞬間も、時間という自分たちの<夢>の中で眠り続けることを意図的に選択し続けています。そして、私たち全員にとって、<夢>の背後にある分離という想念がもたらす苦痛は、いずれはあまりにも堪え難いものとなるので、いつかは、別な選択をしたい、つまり、目覚めるという選択をしたいと望むようになります。(T-2.III.3)

 

ですから、私たちの誰にとっても、今、自分自身に尋ねるべき唯一の質問は、自分はいつまで時間の中で眠り続け、苦痛の中に居続けたいのか、というものです。

 

もし、自分自身を分離したものとして見るという自分の選択について、意識することも責任を取ることも望まないのであれば、私たちはこれからも、少なくとも分離後にすでに経過したのと同じくらいの時間をかけて、ぐずぐずとその選択の時を遅らせ続けることもできると、イエスは述べています。そしてその時間というのは、「数百万年」(T-2.VIII.2:5)にもなり得るとのことです!

 

確かに、このすべては幻想です。そして、時間の外にいるイエスの観点からは、そうした時間はほとんど問題になりません。

 

「失われるものは時間以外に何もなく、時間は最終的には無意味である。なぜなら、それは永遠の前の小さな障壁にすぎず、この世界の真の教師にとってはまったく無意味なものだからである。」(T-26.V.2:1-2)

 

しかしながら、こういったことは、時間の中にいる私たちが経験していることではないということも、イエスは認識しています。

 

「だが、あなたは確かに時間を信じている。だから、学ぶことで達成できる最高の目標に到達するために時間を使えるという時に、どこにも到達しないことによってそれを無駄にする理由はない。・・・・」(T-26.V.2:3)

 

ですから、私たちは時間をどのように使いたいのか、どれくらい長い間、時間という経験の中に留まりたいのかということについて、選択することができます。おっしゃる通り、それは最後には問題にはなりません。自分が本当は誰なのかということ - 真理においては一度も変化したことのない事実 - を、私たちは必ず思い出すことになるからです。しかし、私たちが依然としてこのすべてが実在すると信じている間は、自分が「時間」の中にいる時間の長さは「・・・奇跡によって大いに短縮できる。奇跡は時間を廃することはしないが、それを短縮するための道具である」(T-2.VIII.2:6)と、このコースの中で述べられています。

 

しかし、これが意味しているのは、もし『奇跡講座』があなたの道であるのなら、兄弟たちとの関わりはきわめて重要だということです。というのも、私たちは誰でも、分離の苦痛にまつわる罪悪感や責任のすべてを、自分の中に見たくないがゆえに他者の上に投影しているからです。

 

ですから、このコースを学んでいる私たちにとっては、他の人々の言動はどうでもいいことではなく、私たちはそれに注意を払います。それは、私たちが彼らを変えたいからではなく、彼らに対する自分の反応が、自分の心の中の癒されていない部分へと導いてくれるからです。他者に対する自分の反応を直視することを避け、彼らのことを、自分の目覚めのプロセスには関係ないとして退けてしまうことは、否認を行うということです。換言すれば、分離した状態でいる、という自分の決断についての責任を受け入れることを拒否しているということです。最後には、私たち全員にこのことがわかります。しかし、私たちが、今、選択できるのは、「自分がこうした投影をしていることを、今、認めたいかどうか」です。

 

兄弟を見て、自分自身の「密やかな罪や隠された憎しみ」(T-31.VIII.9:2)を見ることは、非常に難しいことに思えます。しかしそれでも、それを見ないことは癒しへの希望を断ち切ることであるから、更なる大きな痛みへとつながる、ということを、イエスは私たちに理解させたいと望んでいます。だから彼は、これは私たちが兄弟と共に歩む道であることを思い出させ、次のように励ましているのです。

 

「天国の門に至る道が険しいなどと、決して考えてはいけない。あなたが兄弟の手を取り、天国の歌に歩調を合わせ、確かな目的と固い決意と幸せな自信を抱いて取り組むことであれば、難しすぎて実行できないことなど一つもない。」 (T-26.V.2:4-5)

 

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