質問38: 世界中の苦しみを見て感じるうしろめたさについて
この世界における多くの悲劇的な出来事、たとえばアフリカにおける飢餓などといった出来事について、うしろめたい気持ちを感じるなら、それは間違っているでしょうか? 貧しい国々で人々が苦しんでいる状況を目にすると、私はしばしば、「私はなんと楽な生活をしていることだろう。本当に何の不足もないではないか」と考えて、罪悪感を感じるのです。
このような場合の罪悪感も、本当に、〈特別性〉や分離の感覚を保持しようとする試みにすぎないのでしょうか?
回答
『奇跡講座』によれば、罪悪感と咎めは、決して正当とは見なされません。しかし、あなたが感じておられるような罪悪感は、おそらく、ご自分で言われているよりもさらに深いところから発しているものです。そしてそれは、そのレベルにおいてのみ取り消すことができるものです。
私たちはみな、単に自分がここに存在しているというだけで深い罪悪感を抱きます。自我は私たちに次のように確信させてきました。「私たちは、神を犠牲にすることでこの世界に存在している。天国では得られなかった〈特別性〉と個性とを与えてくれるこの世界の中で自分個人の人生を送ることができるように、私たちは神の創造的な力を盗み取り、それを自分自身に授けた」と。その結果、自分がここに存在していることにまつわる罪悪感は巨大なものとなっており、それは否認と投影によって意図的に自覚の外に保たれています。
この投影という力動が作動するためには、「様々の恐ろしいことが起こる世界」が存在している必要があります。私たちが、自分の心の中ではなく外側に、加害者と被害者を知覚できるようにするためです。心の中の凄惨な戦場では、私たちは、「自分は不遜にも神を攻撃したのだから、怒り狂った神は自分を追いかけてきて破滅させるに違いない」と、恐れおののいていますが、そうしたことを心の中に見ないですむように、私たちはそれを自分の外側に知覚できるようにしているわけです。ですから、このことにまつわるうしろめたさが、罪悪感の二番目の層として、私たちの心の中に存在しているのです。それは、投影という防衛を作動させておくために、私たち自身がこの世界の中に苦しみがあってほしいと思っているということから生じている罪悪感の層です。そして、その層が、同時に、天国や神の外側に存在するための思考体系を維持する役割も果たしているのです。
自分自身と自分の罪悪感の両方を心の外に投影することにより、私たちは罪悪感から自由になれる、と自我は保証しましたが、私たちは、結局のところ、〔その投影が作り出している〕多くの肉体からなる世界の中の一個の肉体として、罪悪感を感じる羽目になるのです。
自分の生活がうまくいっているときには、私たちは心の奥深くで、自分がそれを違法な手段で手に入れていると知っているがゆえに、罪悪感を感じます。そしてまた、他の人々が苦労しているのを目にするときには、私たちは彼らの苦しみや貧しさに対して、無意識なレベルで責任を感じるが故に、罪悪感を感じます。つまり、そうしたことを見ているとき、私たちは、「苦痛や、解決不可能な問題といったものに満ちた世界を作らなければならないという計画において、自分も共謀者だった」ということを、思い出すからです。そして私たちが、そのような世界を作り出すことによって忘れようとし、実際にすっかり忘れてしまったのは、「唯一の問題は、自分の心の中で間違った決断をしたことだけである」ということと、「イエスや聖霊に導かれて自分の心の中に戻っていけば、今度は正しい決断をすることができる」ということでした。
そして、最後に指摘しておきたいことは、私たちは、様々な出来事を形だけで解釈するという自分の傾向に用心しなければならない、という点です。換言すれば、外に見えている形は、その人自身の〈贖罪〉の道(すなわち内容)において今なにが起こっているのかを、私たちに教えてはくれない、ということです。
もしかすると、ある人の苦しみや貧しさは、その人の心が「肉体は自分の真の実相ではない」ということを学ぶために用いている〈教室〉なのかもしれません。そうしたことは、私たちにはわからないのです。ですから、不幸な状況のように見える出来事をどう判断するかについては、私たちは慎重にならなくてはなりません。実際のところ、私たちに全貌は見えていないのです。
そしてまた、このコースはその中心的な原理の一つとして、「幻想に順位はない」と述べていることを思い出さなければなりません。
結論としては、人がどんな状況にあるかには関係なく、すべての人々に対して親切で優しく接する、ということを、私たちの指針とすべきだということです。