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質問37: 人災について(講話)

facim q&a

※巨大地震と津波という天災に加えて、原発事故による放射能汚染という問題も浮上してきた2011年3月には、読者の皆さんの心配や疑問にお応えして、いつものQ&AではなくFACIMの解説ビデオから、人災に関する講話を選んで翻訳しました。

 

[講話]

今朝は、ルイジアナ州のメキシコ湾沿いで起こった原油流出事故についてお話したいと思います。このニュースを聞いていない人はいないと思いますし、また、それを聞いて何らかの反応、つまり、動揺や困惑や非難といった自我の反応をしなかった人はいないと思います。こうした反応のリストでいつも一番先にでてくるのが、非難です。つまり、「誰のせいでこんなことになったのか」という思いです。

 

つい最近、私たちの財団に、明らかにこの人災の結果として苦しんでいる魚介類のことを心配する手紙が届きました。ですから、この話題を取り上げ、それを通して、このコースの赦しを実践するにあたっておそらく最もむずかしいと言える側面の一つに、スポットライトを当ててみたいと思います。

 

小冊子『祈りの歌』で「破壊するための赦し」と呼ばれている「自我流の赦し」と、このコースの教える赦しを区別するものは何かと言うと、イエスのヴィジョン(聖霊の知覚、またはキリストのヴィジョン)から見た赦しというものは、すべてを包み込むものである、という点です。神の愛がすべてを包み込んでいるのと同じです。というのも、完全な愛は、それ自体以外のものを愛することはできず、その特徴は完全にひとつであるということだからです。天国の愛が地上に反映されたものが赦しです。そして、赦しは、私たちを通して延長される愛の普遍性を共有しており、全世界を包み込むことができます。人が赦すとき、すべての人がそこに含まれるのでなければ、真に赦していることになりません。

 

ですから、今、私たちがルイジアナの湾岸で目撃しているような大惨事を見るとき、そしてその影響が南部の他の海岸沿い地域にも広がっているのを目にするとき、罪のない被害者のように見える人々を気の毒に思わないでいることはほとんどできません。さて、ここで、「・・のように見える人々」と言いましたが、その理由は、この世界のレベルにおいては、人々は外界で起こる出来事により苦しめられる罪のない被害者ですが、心のレベルでは(そして、幻想の中で真に存在しているのは心のレベルだけなのですが)、何ごとも偶然に起こるものではないからです。

 

「ワークブック」の中で言われているように、私たちは単に、すでに起こったことを眺めているだけなのです。そして、私たちは自分が被害者となったときの話を何回となく繰り返して語りたがる傾向があります。どんなに不当に扱われたか、どんなふうに虐待されたか、どんな被害をうけたか、そしてそれは全く自分のせいではない、と思い続けたいのです。「テキスト」の最後の方では、これは「無罪潔白を装う顔」と呼ばれています。これが、この世界が巻き起こすさまざまな出来事の対象となる「顔」です。そして世界は、この「無罪潔白を装う顔」を苦しませます。これには、人間だけでなく、動物や植物や、地球上のありとあらゆるものが含まれます。というのも、生物も無生物も同じく幻想であり、その間に区別などないからです。しかしこれは別の話題ですので、これについてはまたの機会にお話します。

 

私たちがこの原油流出事故に自分が反応していることを自覚したときには、「紛れもなく自我の特徴である“非難する”という傾向が、自分自身の中にある」ということを認識することが大切です。自分の中にある、「一つのグループ(たいていは被害者側)と一体感をもち、もう一方のグループに反対するという傾向」を見取ることです。被害者がいるとなれば、加害者もいなければなりません。

 

あるキリスト教作家がどこかで書いていた言葉で、「十字架にかけられた者がいたのなら、十字架にかけた者がいたはずだ」というものがあります。被害者がいるなら、必ず加害者もいることになります。そしてこのような考えは、自我の思考体系の顕著な特徴をなす二分法や差別化を定着させ、強化させることになります。なぜなら、天国という完全な一体性の中には、「二つ」というものは存在しないからです。そこには、二元性はありません。ただ、完璧に未分化の一致状態があるだけです。それが、神性というものの実相です。善人と悪人、被害者と加害者を区別するようになると、あなたは神の子全体を二つに分けていることになります。そしてもちろん被害者は、ある時は被害者ですが、また別な時には、加害者にもなります。加害者も、いつかは被害者になります。そしてこの二元性のメリーゴーランドに乗って、私たちはぐるぐる回り続けるのです。それが目標としているのは常に、死と、自我の思考体系を温存することです。

 

ですから、原油流出事故とその影響についてのニュースを見ているときに、私たちが挑むべき課題は、「これも『コース』が教えていることを学び、実践するためのもう一つの機会であると認識すること」であり、それを自分の<教室>にすることです。イエスは、私たちがこれを見て、その中に非難/咎めを見ないようになることを望んでいます。

 

人類が残した霊性に関する文献の中でも非常に偉大な書物の一つとして、易経が挙げられます。これは中国の輝かしい叡智の総まとめのようなものです。この易経の中によく出てくる言葉の一つに「咎めはない」というのがあります。この考え方は、私たちがコンピューターやテレビでニュースを見ているときや、新聞記事や雑誌を読んでいるときに、非常に助けになります。つまり、私たちがそういうニュースを見たり読んだりしているときに、イエスか聖霊に、「どうか、私もあなたと同じように、これを咎めることなく見ることができるように助けてください」と求めることができます。その事態を、「善人もなく、悪人もない。誰もが苦しんでいる」と捉えることができるようにと願うのです。というのも、この世のレベルでは、原油の流出やその隠蔽工作、その他もろもろについて責任がある人々も、みな被害者でもあるのです。彼らも、私たちと同様に、同じ自我の思考体系の一部なのです。彼らの動機は貪欲さだったかもしれませんし、私たちの動機は「受難する」ということだったかもしれません。しかし、いずれも同じ自我の思考体系の骨子となるものです。

 

フィロン(訳注*)の言葉で、「親切でありなさい。あなたの目に触れるすべての人々が、厳しい戦場で闘っているのだから」というのがあります。私たち全員が、自我の思考体系という厳しい戦場で闘っているのです。ある人々は被害者として闘っていますし、他の人々は加害者として闘っています。それでも、私たち全員が同じことをしているのです。そして私たちの誰もが同じことをしているのですから、私たちはみな同じなのです。
(*訳注: ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝時期にアレクサンドリアで活躍したユダヤ人哲学者)

 

そして、神の分離した子供たちの普遍的な同一性を見るヴィジョンの中にこそ、私たちがいつの日か、夢から覚めて、一なる神の子の普遍的一体性に目覚めるのを助けてくれるものがあるのです。けれども、それを自分のものとするためには、私たちはそれを練習しなければなりません。毎日の実習を行なわなければなりません。それは、あの易経の中の素晴らしい言葉、「咎めはない」を実践することに他なりません。

 

ここで難しいのは、被害者と加害者が同じ原因から生じているということを認めることですから、この練習には、誰かを咎めている自分自身を咎めないようにする、ということも含まれます。私たちの誰もが、憎悪と罪悪感という同じ自我の思考体系と、赦しと癒しという同じ聖霊の思考体系をもっていると同時に、私たち全員が、同じ選択の力をもっているのです。ですから、私たちのすべきことは、内なる教師に助けを求めることによって、自分に正しい選択ができるようになることと、彼が見ているような咎めのない世界を見ることができるようになることを、手伝ってもらうことです。というのも、そうすることが、私たちが故郷に帰る方法だからです。

 

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