質問24: 睡眠中に見る夢と、目をさましているときの夢について
私たちが目を覚ましているときの夢の中の様々な出来事、活動、関係などが私たちの〈教室〉を構成し、〈赦し〉のレッスンを学ぶための媒体となっているわけですが、「睡眠中に見る夢」には、〈赦し〉を学ぶプロセスにおいて、何らかの特定の意義や価値があるのでしょうか?
また、睡眠中に見るそうした映像に対する私たちの反応は、目を覚ましているときの夢という〈教室〉に対する対応とは何らかの点で違ったものであるべきなのでしょうか?
回答
目を覚ましているときの夢にしても、睡眠中に見る夢にしても、夢を見ている主体は同一の心です。
この二通りの夢の間に真の違いがあると、私たちに確信させようというのが、自我による数多くの策略の一つであり、自我は、私たちは本当はまだ眠っていて同じ〈分離の夢〉を別な形で見ているにすぎないのに、目覚めていると信じさせようとします。
私たちが目覚めたかに見える状態へと移行する際に、睡眠中の夢は私たちに様々な洞察を提供してくれますが、中でも重要なのが、「私たちの心は、夢の中では、それを見ている間は非常に実在性があるように思えるような世界を作り上げるだけの力をもっている」という実感です。しかもそれは、自分自身の個人的な必要を満たすためだけに作り上げられた世界です。
イエスは、私たちが睡眠中に見る夢のこの側面について、次のような一節の中で、非常に明快にその詳細を語っています。
夢の中には、まるで実在するかに見える世界が現れてはこないだろうか 。・・・そしてそれを見ている間は、それが実在することを疑わない。しかしこれは、明らかにあなたの心の中にありながら外側に存在するかに見える世界である。その世界に対するあなたの応答は、自分が作り出したものに対するときの応答ではなく、あなたはまた、夢が生み出す感情が自分自身から生じているはずだと気づくこともない。・・・あなたは目を覚ますかに見え、そのとき、夢は消えている。だが、あなたが認識できていないことは、夢の原因となったものは、夢と一緒に消えてしまったわけではないという点である。実在しない別の世界を作り出したいという願望は、依然としてあなたに残っている。そしてあなたが目覚めるかに見えるときに目の前にあるのは、夢の中で見るものと同じ世界の別の形態に他ならない。あなたの時間のすべてが、夢を見ることに費やされている。あなたが眠っているときに見る夢と目が覚めているときに見ている夢は、異なった形をしており、違いはそれだけである。内容はどちらも同じである。どちらも実相に対するあなたの抗議であり、自分には実相を変えることができるという、狂った固定観念である。
(T-18.II.1:1;5:2-4,8-15)
睡眠中に見る夢の中でも、私たちには、「目を覚ましている」ときと同じく、どちらの教師を選ぶかという選択肢があります。
そして、いずれ、私たちは夢の中における自分の判断はまっとうなものではないと認識するようになり、時の経つうちに、睡眠中でも〈赦し〉を選択することができるということを発見することもあるでしょう。明晰夢を見ることさえできるようになるかもしれません。つまり、夢を見ている最中でも、明晰な意識を保ち、自分が眠っていて見ている夢は、自分の心が作り出したものであるということを自覚できるようになる、ということです。
それは、私たちの目を覚ましているときの夢においても、最後には私たちに訪れるはずの自覚を予示しています。
そしてまた、目を覚ましたときに、睡眠中に見ていた夢の中で自分が経験する動揺の源は、他の誰かが自分に対し行なっていることとはまったく関係がないということを認識するなら、睡眠中の夢はまた、イエスが私たちを導いていこうとしている〈赦し〉の真の意味を理解する機会も与えてくれるでしょう。私たちの動揺は、「自分は動揺することにする、そして、この平安の喪失を自分の外側にあるかに見える原因のせいにする」と決めた私たちの心の中の決断を反映するものであり、それ以外の何ものでもありません。
これが、私たちが目を覚ましているときの夢の中でもやっていることだという自覚が、イエスが、このコースの中で次のように私たちに提示している〈赦し〉のプロセスの土台となります。
私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。・・・私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。・・・赦しは、兄弟から自分に為されたとあなたが思っていたことは、起こってはいなかったと認識する。
( W-pI.5; W-pI.6; W-pII.1.1:1)
この認識を、眠っているときに見る夢から、目を覚ましているときの夢へと普遍化させていくことができるなら、私たちは、すべての〈分離の夢〉から目覚めるための道をしっかりと進んでいくことになるでしょう。