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質問118: 「思考する生き物」以下の存在も、幻想から目覚める選択ができるのか

facim q&a

 私は『奇跡講座』を学び実践している者です。ワプニック先生の著作もたくさん読ませていただいて、ありがたく思っています。現在読んでいる本の中で、以下の一節に遭遇しました。

「この世界にいるすべての人々、あるいは、厳密には、自分がこの世界にいると信じているすべての人々 ― 実際のところ、動物界、植物界、そして鉱物界のすべて ― が、自我の思考体系をそっくりそのまま抱えてここに来ている、と見ることができます。」

 

私たち人類が自我の思考体系に捕縛されていて、自我か聖霊かのどちらか一つを選択できる、という理論については、私も問題なく理解できるのですが・・・


一匹のスカンクとか、一本のアスパラガスとか、巨大な岩などが、自我をもっているとか、同様の選択に至ることができる、などといった考え方には付いて行けません。

 

それともこれは、実際にはただ一つの幻想があるだけなのに、「幻想には順位がある」と信じるという間違いを私がおかしている、ということなのでしょうか? そして、その一つの幻想とは「神からの分離は可能だ」という考えであり、この世界の中の感覚を持った生命体はどんなものでも、自我の第4分裂がもたらした断片化の一部だということなのでしょうか?

 

 

回答

その通りです。あなたはすでにご自分の質問に答えておられます。存在するのは一つの幻想だけですが、それが多くの形で表われるようになった、ということです。私たち(ひとりの神の子)は、テキストが述べている通り、一つの代替えを作っただけです。

 

「それは数多くの形態をとるに至ったが、その理由は、それが真理を幻想に、全一性を断片化に入れ替えるという代用だったからである。それは分裂し、細分化し、さらなる分割を幾度となく繰り返してきたため、かつて単一であったし今も単一であると知覚することは、今ではほとんど不可能となっている。」(T-18.1.4:1-3)

 

そして、それは今でも単一なのです! 一つの分離の想念があるだけであり、それが何十億という形態の中に現れているのです。それにより「神からの分離」という嘘に真実性を持たせ、一体性という真理を存在しないものにしようとしている、ということです。

 

「形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。なぜなら、形態を見ているということは、理解が曖昧にされていることを意味するからである。」(T-22.III.6:7-8)

 

それが、「自我の戦略」における究極の目標です。すなわち、分離した存在としての私たちの起源を、私たちが自覚できなくなるまで跡形もなく消し去り、その真理を、私たちに認識できないものとしてしまい、延いては、途方もない馬鹿げたことのようにさえ思わせることです。

 

「あなたが真実でないものを見えるものにしたとき、真実であるものがあなたには不可視のものとなった。」(T-12.VIII.3:1)    

 

分離についての『奇跡講座』の教えを私たちが理解することの難しさの一つは、(それが幻想だという事実は別にして、)部分的には、私たちが自分の観点からそれを理解しようとしている、ということがあります。換言すれば、この世界(形態の世界)の中の人間としての自分の経験を、判断基準としているからです。その判断基準からは、一本のアスパラガスが心をもっていて、選択する能力があるなどということは、もちろん意味をなしません。けれども、ここでも自我はまさに私たちをそういう困惑へ辿り着かせようとしているのです。

 

ワークブックの以下の箇所が言わんとしているのがそのことです。

 

「ひとりの兄弟はすべての兄弟である。どの心もすべての心を含んでいる。どの心も一なるものだからである。これが真理である。 ・・・ あなたはこのような言葉によって、完全に明瞭な理解を得られるだろうか。それはただ空ろに響く音としか思えないはずである ・・・ 具体的な考え方をするように自らに教えた心は、もはや、すべてを包含するという意味の抽象性というものを把握できない。」(W-pI.161.4:1-3, 5-7)

 

『奇跡講座』を学び始めたばかりの人々の大半が、自分の経験以外に判断基準を持っていないということは、確かに言えます。けれども、多くの時間をこのコースと共に過ごしたなら、「私たちが経験している全ては、自分の心の中で常に自分が下している選択を象徴しているものであり、それゆえ、ものごとはその見かけ通りのものではない」ということが、認識できるようになってきます。だからこそイエスは、このコースを習得するには、私たちが持っているすべての価値観を疑ってみる必要があると、言っているのです。私たちがこの認識を深めていき、知性を超えた真の知覚のレベルにまで達するとき、私たちはイエスの心眼{ヴィジョン}を、共有することになります。この心眼{ヴィジョン}は、言語の形においては、このように表現されています。

 

「最も小さな一粒の砂であっても、それが神の子の完全な絵の一部であることが認識されるとき、それはなんと神聖なものでしょう! 断片の見かけ上の形態は、何も意味しません。なぜなら、その一つひとつの中に全体が宿っているからです。神の子の一つひとつの側面は、他のすべての部分とまったく同一です。」
(T-28.IV.9:4-7)

 

 

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