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質問110: 浮上してくる怒りや攻撃の想念について

facim q&a

私が『奇跡講座』を学びはじめてから、およそ12年が経ちます。このコースの受講生たちが、自我がしていることを見るために聖霊に助けを求めるようになると、自らの生活の中のものごとが、より良くなるのではなく、より悪くなるように思えることがよくある、ということは、私も承知しています。

 

私自身の学びのプロセスにおいてひどく不安な気持ちにさせられるのは、非常に多くの怒りが現れるということ (というよりも、多分、「浮上してくる」と言ったほうがいいのかもしれませんが) です。ごく日常的な状況の中でも時々、私の思考は完全に凶暴性を帯びて殺意に満ちたものになることがあります。私は自分のことを、快活な性格で、全体的に好感のもてる、親しみやすい人間だと言えると、自分では思っているのに、こういうことが起こるのです。私の推測では、私が聖霊の助けを得て内側をよく見るようになるにつれ、抑圧されていた多くの怒りが浮上してきているということなのではないかと思っています。

 

この件についても、聖霊に一緒に見て欲しいと助けを求めるべきだということは承知していいるのですが、普段は物腰柔らかで静かな自分の性格という表層の下に、もしかすると横たわっているかもしれない他の何かを掘りかえすことを、私は「恐れている」と言えるほどなのです。これは長期にわたり『奇跡講座』を学んでいる者にとって、いわば「普通」のなりゆきなのでしょうか?

 

 

回答

その通りです。あなたが述べておられることは、『奇跡講座』を学ぶ者たちにとっては、ごく普通の経験です。ご承知の通り、このコースの学びのプロセスというのは、「自我の為すことを、私と一緒に見てください」と聖霊に求めるプロセスです。それをしているとき、私たちは、それまでは常に闇の中に保とうとして必死で努力してきたもの – 無意識のうちにですが — を、光のもとに運んでいるのです。聖霊の手を取り、これまで埋没させてきたものを意識化しようという意欲が強まってくると、私たちはそれまで以上に、自我が本当にどれほど憎悪に満ちていて凶暴なものであるかを目にするようになる、ということが、しばしば起こるのです。

 

自我が、自分にとって負け戦になりつつあると察知したとき (つまり、私たちが、自我自身の声の他に、耳を傾けるべき声を見出したと認識したとき)、 自我の声は、たいてい、より大きく、より大げさなものになります。「テキスト」が、次のように述べている通りです。

 

「あなたの動機が、自我が知覚しているあなたとは明らかにそぐわないものになるやいなや、自我はそれを攻撃する。自我が猜疑心から凶暴性に突如として移行するのは、このときである。それは、自我の確信のなさが深まるからである。」(T-9.VII.4:6-7)

 

私たちが内なる教師を取り替えるのが上手になってくるにつれ、恐れが私たちを急旋回させて、耳慣れた自我の声の方に戻っていかせる、ということがよく起こります。しかし、『奇跡講座』は、このような傾向は、自分で始めた旅を完了させることのできる私たちの究極の能力には、なんの影響ももたらさないと述べて、私たちを安心させています。

 

「光が近づいてくると、あなたは闇へと急ぐ。真理の前で縮み上がり、あるときは、些細な形の恐れの中へ、またあるときは、正真正銘の恐怖の中へと逃げ込む。それでもあなたは前進するだろう。なぜなら、あなたのゴールは、恐れから真理に向かって前進することだからである。」(T-18.III.2:1-2)

 

自我がどんな勝負を挑んでくるとしても、重要なことは、聖霊の手をとりつつ、自我を見るということを、ただ続けていくことです。もちろん、この世界のレベルにおいて、普通は、自我の狂った攻撃の想念を行動に移したりしない方が、あなた自身やあなたの周りの人たちにとって、助けになります。.けれども、そうした想念がそこに存在していないという振りはしない方がいいのです。そのようなことをしても、それらをなくすことにはならず、ただ、もとの無意識の闇の中に送り返してしまうことになるだけです。

 

そして、根本的な心理学的原理の一つに、「抑圧されたものは投影される」というものがあります。ですから、自分の憎悪や凶暴性を真に減らしていくためには、私たちは自分がそうしたものであることを認める必要がありますし、自我の声を深刻に受け止めないようにすることを徐々に学んでいく必要があります。繰り返しになりますが、それは、内側における自我の険悪さがどれほど強烈になったり、恥辱的になったりしても、その自我を裁くことなく見つめる、ということを意味しています。

 

覚えておくべきは、自我 – あらゆる人の自我 – というのは、100パーセント憎悪からできています。社会的に好感を持たれる人柄というものが、他の自我よりも良かったり、好ましかったりする自我をもっているということはないのです。イエスは次のように述べています。

 

「あなたが感じる感情の度合いは問題ではない。かすかな煩わしさも、激しい怒りを覆い隠すべールにほかならないことを、あなたも次第にはっきりと自覚するようになるだろう。」(W-pI.21.2:4-5)

 

最初は、この記述は奇異で、かなりの不安をかきたてるものに思えます。けれども最終的には、それはとても安心させてくれるものなのです。イエスの視点からは、私たちはみな同じである、ということですから。

 

私たちの一人一人が、100パーセント憎しみに満ちた自我の声を聞くことにするか、100パーセント愛に満ちた聖霊の声を聞くことにするかを選ぶことができます。私たちの一人一人が、この人生において発揮している性格的特徴とは関わりなく、「ヒトラー」でもあり「イエス」でもあるのです。私たちの想念や行動が「ヒトラー的」になっているときには、私たちは単に、怖くなって、聖霊の手を離し、再び間違った声を聞くという誤りを犯しただけなのです。これは、懲罰ではなく訂正を必要としている「間違い」なのです。そして幸いなことに、私たちの自我の残酷で狂った喚き声は、実相にはなんの影響も与えません。

 

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