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質問104: 『奇跡講座』と「瞑想」

facim q&a

私の質問は、「テキスト」の「私は何をする必要もない」というセクションを読んでいて浮かんだものです。このセクションは「肉体からの離脱を目的とした一生かけての観想や長期間にわたる瞑想も、必要ではない」(T-18.VII.4:9)と言っています。

 

私は長年にわたり『奇跡講座』を学んでおり、先入観をもたずに、聞こうとする意欲をもって、レッスンを行なったり、「テキスト」を読んだりすることで、素晴らしい平安の瞬間を何度も経験してきました。

 

一方で私は、仏教の瞑想も勉強してきましたが、こちらは肉体からの離脱を目的とするのではなく、しっかりと「今ここ」に気持ちを向けることを目的としています。呼吸や何らかの感覚に意識を集中させつつ、自分の想念を見る、ということができます。自覚しながらこうしたことをっていると、諸々の想念は過ぎ去っていき、ゆったりとした気持ちや、少なくとも、「静止することからくる穏やかな気持ち」という意味での平安が得られます。

 

私がよくわからないのは、以下の点です。『奇跡講座』は多くの箇所で、私たちに「静かにする」「沈黙して座る」「座って沈黙し、静かにして、すべての想念を脇に置く」といったことを求めています。これらは、少なくとも部分的には、瞑想の場合と同じことなのではないでしょうか?『奇跡講座』が私たちに求めている「静かにする」ということは厳密にどういうことなのか、説明していただけますか?  『奇跡講座』と瞑想の間には、何か違いがあるのでしょうか?

 

回答

静けさや平安は同じです。すなわち、私たちがすべての分離や裁きの想念を手放し、自我による絶え間ないおしゃべりがんだときに体験されるものは、どちらの道においても同じです。両者の間の違いは、経験そのものの中にあるのではなく、『奇跡講座』はそうした体験に対する私たちの抵抗に、焦点を当てているという点です。ですから、平安や静けさが達成されるプロセスに違いがあるのです。

 

真の問題は、「なぜ私たちは、静けさを、常時、体験していないのか」ということです。

 

「ワークブック」のレッスン「私は神の平安を望む」の中で、次のように述べられています。

 

この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。(W-pI.185.1:1-2)

 

神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。・・・平安こそが自分の望むすべてである、と本気で言う心は、必ずほかの心とつながることになる。ほかの心とつながることが平安を得る方法だからである。(W-pI.185.5:1;6:1)

 

静けさに対し私たちが抵抗する理由は、そこにあります。その平安の中では、私たちが真に自分だと信じている「幻想にすぎない夢の自己」がもはや存在しません。そのとき、私たちは分離の夢を放棄しているからです。裁き/価値判断や攻撃という私たちの夢が、「分離した自己」という幻の感覚を維持するものです。それは、その自己の外側に他者が居て、その他者と私たちは戦っているという感覚であり、戦いとは、平安に対するアンチテーゼです。私たちがすべての裁き/価値判断を手放すことで「ほかの心とつながる」ときには、私たちの分離した自己は消滅します。少なくとも、無限なるものに対する私たちの恐れが過大になるまでの一瞬の間は、消滅します。

 

ですから、『奇跡講座』は平安について語っていますし、「ワークブック」のいくつかのレッスンの中では、私たちが心を鎮めて、静かになることでその平安を体験するようにとってはいますが、真に重視しているのは、私たちの「抵抗」という問題であり、その問題に目を向けるようにと私たちに求めているのです。そして、「抵抗」は、私たちのすべての投影の中に見出されることになります。平安に対する真の障害である罪悪感を、私たちは自分の心の中に隠しもっていますが、それを決して見なくてすむようにと、自分の平安の欠如にまつわる罪悪感や咎めを他人に投影しているからです。

 

あなたが言及された「私は何をする必要もない」というセクションが指摘している通り、

 

「あなたの道はそれらとは違う。目的においては同じでも、手段においては違っている。神聖な関係は、時間を省く一つの手段である」(T-18.VII.5:1-2)

 

・・・ということです。換言すれば、このコースのプロセスは、自分たちの〈特別な関係〉を赦す、というものです。つまり、私たちの内なる罪悪感(=私たちを平安ではなく葛藤の中に留めておくもの)が外に投影されたもののすべてを赦す、ということなのです。

 

もし私たちが、静かで心安らかになることを本気で望んだなら、私たちはそうなるはずです。平安は、つまるところ、私たちが自然に受け継いでいる賜物(T-3.VI.10:1-2) です。けれども、私たちは自分自身に、真の平安をほんのわずかなあいだ垣間見ることしかさせません。それはあなたもご自分の経験からおわかりになる通りです。私たちは、あの静けさを維持したくはないのです。それを恐れているからです。ですから、このコースは、瞑想のように直接的なアプローチをするのではなく、間接的な道を通って静けさへと至るように私たちを導きます。それは、自分自身と平安の間に置いた障害を取り去ることに焦点を合わせるという道であり、抵抗や抵抗の源などが見逃されやすい直接的なアプローチとは異なっています。

 

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