質問10: 肉体の「実在性」ということについて
瞑想中に自分に向かって「私は肉体ではない。私は自由である」と言うとき、私は心の平安を感じます。ところがいったん目を開くと、ここにあるのは・・・やはり私の肉体です。このことで私は憤慨するというわけではありませんが、混乱します。自分自身を眺めるとき、私は美しい、と感じますが、もしかして私は自分がもっているものの真価を味わっているというよりも、再び自我を肥大させているだけなのではないか、と心配になります。これではまるでパズルです。このことに関してどう思われますか?
【回答】
『奇跡講座』は多くの箇所で、私たちは肉体ではない、と教えていますが(たとえばレッスン199やそのあとに続く復習のレッスンなど)、同時にまた、私たちには自分自身を肉体と見なすことへの強い執着があることも認識しています。イエスはそれについて次のように述べています。
自分自身を見なさい。あなたには肉体が見えるだろう。・・・そして光がなくなれば、それは消えてしまったかに見える。それでもあなたは、手で肉体に触れることも、それが動く音を聞くこともできるので、それがそこにあると思って安心する。ここにあるのは、あなたが自分であってほしいと望んでいる一つの形象である。それはあなたの願望を叶えるための手段である。(T-24.VII.9:1,3-6太字はワプニックによる)
あなたが描写しておられるように、私たちは肉体との一体感を超越するかのように思えるつかの間の体験をすることがあるかもしれませんが、それが長続きすることはほとんどありません。なぜなら、私たちはまったくそれを望んでいないからです。私たちにとっての「願望が叶った状態」というのは、私たちが自分を「一人の分離した特別な個人である自己」として見ている状態のことを言っているのであり、私たちの肉体がそのアイデンティティーを肯定してくれています。
『奇跡講座』は、次のように述べています。すなわち、この限定された自己を自らのアイデンティティーとすることを (実相においてではなく、空想の中で) 選択した張本人は私たちであるのに、私たちはその決断の責任を受け入れることはしたくなかった。その理由は、私たちの無意識の奥深くにうずめられている信念 (これは、でっち上げられたもので真実ではない) によれば、私たちが神の単一性と、霊としての自らの真のアイデンティティーを攻撃することによって、この分離した自己を獲得したからである。そして、私たちの自我によれば、それは背筋が寒くなるような恐ろしい破壊と殺害の罪ということになっている、と。
ですから、いったん、自分が他の肉体のもとに生まれた肉体であるかのように見える状態になると、個別になった私たちの存在というものを私たち自身が作り出したなどとは、とうてい思えなくなります。両親が私たちを作った、としか思えないわけです。そして、私たちは、多くの宗教が教えているように、神が私たちの個人的な自己という、この特別な「被造物」に何らかの形で関与している、とすら信じることができるようになり、これは私たちの自我を大いに喜ばせるわけです。
『奇跡講座』は、私たちが自分の肉体に非常に強い一体感をもっていることを承知していますし、自分を保護してくれると私たちが信じているものを手放すことがどれほど恐ろしいことかについても承知していますから、肉体との一体感を私たちに放棄させることを目標としてはいません。 (そうした放棄は、最後の最後に起こることです。)
そうではなく、どのようにすれば私たちの肉体に、自我が最初に与えた 「罪、罪悪感、恐れ」 といった目的とは違う目的を与えることができるか、その方法を教えているのです。
聖霊の助けにより、肉体は〈赦し〉のレッスンを学ぶための媒体となります。そのレッスンは、私たちと同じく肉体として目に見える存在である私たちの兄弟姉妹との関係を背景として学ばれます。ですから、〈赦し〉のプロセスが完了して、もはや自分の心の中に罪悪感がなくなり、自分を罪悪感から防衛してくれる肉体を必要としなくなるその時まで、私たちは自分自身も他のすべての人々も、肉体として見続けることになります。
あなた自身を美しいと見る、ということについてですが、『奇跡講座』が私たちはいかに美しいかを語るとき (たとえばW-pII.313.2:2)、それは私たちの物理的肉体や個々の人格について言っているのではないということさえしっかりと理解していれば、それに関して何も悪いことはありません。『奇跡講座』が言っているのは、私たち全員の中に反映されているキリストの美しさのことであり、私たち全員が霊として等しく共有する美のことです。
[2009年11月10日]