質問128: 音楽と『奇跡講座』
音楽(特にクラシック音楽)は、〈正しい心〉に関連する状態の一側面と言えるのではないかと、私は思っています。『奇跡講座』では、感謝の歌とか、賛美の歌とか、天国の歌といった言葉が使われていますし、「忘れられた歌」というセクション(T-21.I.)には、とりわけ美しい喩えがあって、私たちが忘れてしまったものの美しさを理解するのを助けてくれます。
ですから、私は時々思うのです。この夢の世界で私たちが「美しい音楽」の夢を見るとき、『奇跡講座』で言及されているメロディーを反映するような特定の種類の音楽や、特定の作曲家や作品があるということが、このコースの中でさりげなく仄めかされているのではないか?・・・と。
回答
イエスは常に私たちを、彼の述べていることの〈内容〉へ導こうとしているのです。〈形態〉へではありません。
〈形態〉とは常に具体的なものです。私たちは彼が具体的なものごとに関与してくれることを望んでいますが、それは本当は私たちのためにならないのです。よく考えてみればおわかりの通り、私たちの具体的なものごとにおける実績はあまり立派なものではありません。
もし彼が具体的な楽曲に言及するなら、私たちはすぐに比較や議論などに陥ってしまい、そのレベルにとどまることになるのは明かではないでしょうか? また、異なる形態は異なる人々を魅了します。人によっては、「ニール・サイモンの曲を聴きながら一瞬にして無我の境地に達するけれども、ベートーヴェンの 『歓喜の歌』にはまったく共感できない」ということがあるかもしれません。ですから、〈形態〉のレベルでは、普遍的に通用する規範のようなものを提示することはできないのです。愛による導きは、ある人をある方向に向かわせて、別の人はまったく違う方向に向かわせる、といったことをするかもしれません。
けれども、イエスが具体的なことに立ち入らない本当の理由は、彼はそれが意味のあることだと認識してはいないからです。具体的なものや〈形態〉は、常に肉体に関わるものであり、〈内容〉は心に関わるものだからです。『奇跡講座』の〈形態〉がシェイクスピア風の無韻詩であることにより、それが素敵な読み物となってはいますが、そのことは〈内容〉とは何の関係もありません。このコースは、それ以外のいくつもの〈形態〉で表現されることもできたのです。イエスは「忘れられた歌」の中で、「その歌の調べ自体は無である」(すなわち、音符は無である)と私たちに思い出させています。これは、「形あるものを超越した愛の本質である一体性に、私たちがますます近づいていくように導く」という、このコースの教え方のパターンと一致しています。
しかし、もしある種の音楽や特定の作曲家や楽曲があなたにインスピレーションを与え、より平安になるのを助けてくれるのであれば、それを聴くことを楽しむべきではないと考えるのは愚かなことです。ですから、ただ〈内容〉に焦点を合わせるよう努めてください。そうすれば、例外なくすべての人を愛をもって包み込むような「自我のない存在」があなたの中に居ることを思い起こさせてくれるはずです。
[2023年10月30日]