質問126: 攻撃の形
先日、SARSウィルスに関する記事で、どのようにしてそれが細胞を攻撃するかについて書かれているのを読んだとき、私は、イラクでの攻撃のことを思いました。そしてその次に、近所の人たちからの攻撃という私個人の被害者体験(および、そのあとに続いた私の攻撃と防衛)のことを思いました。
これらの状況との関連における〈赦し〉について、さらにこれら三つの攻撃の間の相互関係についても、何かコメントしていただけませんか?
回答
あなたがその三つの異なった攻撃の形を結び付けて捉えておられるのは、的を射ています。〈赦し〉はいずれの状況にも等しく当てはまります。それらは内容においてすべて同じだからです。いずれの場合にも、苦しみをもたらす外界の勢力(加害者たち)によって攻撃されているように見える「罪の無い被害者たち」が存在しています。被害者たちはみなそれぞれに、「兄弟よ、私を見なさい。あなたの手にかかって私は死ぬ」(T-27.I.4:6)という、自我の正義の叫び声を上げることでしょう。
『奇跡講座』が教えている〈赦し〉が私たちに求めていることは、そうした攻撃のシナリオの一つひとつについて検討するときに浮上してくる自分の感情や価値判断に気づくことです。こうした反応が私たちに見せてくれるものは、「自分は罪の無い被害者だ」というような自分についての信念や、加害者に対する裁きという価値判断です。私たちに求められているのは、まず初めにこれらの信念を認識すること、それから、外見を超えて苦しみの真の源を見ることを学ぶことです。そして、その真の源というのは、心の中で下された「分離を実在のものにする」という決断です。〈赦し〉は、この選択とその結果(攻撃され、被害を受けたという気持ち)について、心の外側の誰かや何かを非難せずに、自らの責任であることを認める、というところから始まります。これが、このコースの「神の子がしていないことについて、彼を赦そうとする意欲をもちなさい」(T-17. III. 1:5)という文が意味していることです。
どのような形のものであれ、知覚された攻撃のすべてが示しているのは、それ以前に心の中で分離を選択したことにより、神の子としての自分のアイデンティティーを攻撃した、ということです。
これは私たち自身について言えることですし、「他者の手で苦しんでいる人」のように私たちが知覚するどんな人についても言えることです。その「他者」には、軍隊や、ウィルスや、近所の人たちや、自然災害なども含まれます。
『奇跡講座』を学ぶ私たちの責任は、心による選択の力が私たち自身の中にも他者の中にもある、ということを認めることです。それを認めたなら、次に、私たちはみな同じ心の力を使用して別の選択をすることができる、ということを認めます。そのようにしながら、一方では、自分が知覚している通りのその状況についての考えや感情や価値判断などを否定しません。それらを聖霊のもとに運んでいくことで、私たちの心は自由になり、最も愛あるやり方で行動するよう導かれることになります。
[2020年10月31日]